4.「名前で呼ばせて」

 階段を下りきった時点で、あの懐かしい香りに目を細めた。

 入院中は言わずもがな。復帰してからも、補講と練習でとてもじゃないけど絵どころではなかったので、美術室を訪れるのも久しぶりだった。

「失礼します」

「? こんにちは!」

 扉を開けると、スラリとした体躯の男の子が、花が咲くような笑顔で振り返った。

 その子はランと名乗った。聞き慣れない響きの名前にはたと入学式の点呼を思い出したが、急かすように君は?と聞かれたので、なんとなく俺も下の名前を答えた。

「セーイチ、って、もしかしてこの、イレーヌを描いた人?」

「ああ、そうだよ」

 ランは俺が入院前に描いた、ルノワールの模写を指差した。まだ飾ってもらっていたのか。たかだか半年前のものでも今見ると随分拙く見えて恥ずかしかったが、ランはお構いなしに瞳を輝かせ「綺麗な絵だから、描いた人に会ってみたかったんだ」そう告げた。彼と親しくなるのに時間はかからなかった。


 俺が美術室を訪れるタイミングはまばらだったが、ランは暇さえあればこもっているようだった。彼は一度スイッチが入ると全てをシャットアウトしてのめり込む気質だったため、意外と会話の機会は少なかった。だから知っていることといえば、彼は2年生ということ、4月に編入してきたこと、その程度。俺の入退室に気づいくのも3回に1回くらい。でも、不可侵の領域でお互いに集中することは心地よかった。

「あ、セーイチ!おつかれー」

 放課後、美術室のドアを開ける。ランは珍しく作品に向かわずに携帯を眺めていた。アウトプットの速さが卓越していて、会うたび取り組んでいる作品が違うことも多い彼の背後には、粘土の像。デッサンなんかでよく使う、バストアップの石膏像を模したようなもの。ランが取り組むジャンルは様々だったが、立体作品は初めて見た。

「お疲れ、すごいね、もう完成?」

 あまり詳しくはないせいか、美術館で見るようなものとの違いがわからないと思った。でも、ランははにかんだあとすぐに子犬のように眉を下げて、唇を尖らせた。

「なーんかもやもやしてるんだ。あとちょっとだけど」

 そう、と相槌を打ってもう一度作品を見たけど、やっぱり分からないな。しげしげと眺めていると、ランが「だから!」と華やいだ声を上げた。

「いまね、姉を呼んだんだ。そしたら見てくれるって」

「お姉さんがいるんだ。詳しいの?」

「うん、立体作品おたく!見る目ピカイチ!セーイチと同い年だよ、知り合いだと嬉しいな」

 無邪気に笑うランに顔が綻んだ。どうだろう、そういう話をしたことがある子はいないけど、美術品に造詣が深いなら仲良くなってみたかった。「ふふ、そうだね」やわらかい頭を撫でていると、扉の開く音がした。

「失礼しま……」

「リラー!」

「東雲?」

 東雲は固まっていたし、俺も固まっていた。ランが俺たち二人の顔を見比べて「やった!リラとセーイチが友達だなんて運命みたい!」とはしゃいだ。うん、正直俺もそう思った。状況をじわじわ飲み込んで、胸が高鳴った。

「ともっ……え、ラン、呼び捨て?」

「ふふ、ついでにため口だ」

「マジ?体育会系なのによく許したね」

「だめかな?」

 小首を傾げるランに、俺はううんと首を振った。赤也なら叱っていたけど、なぜかランは許せる。そんな愛嬌と、どこか異国めいた、特別な雰囲気があったからだ。だから、東雲に弟がいることは聞いていたけど、東雲とランがまさか姉弟だとは夢にも思わなかった。

「東雲の口が悪いのは弟の影響だと思ってたから、不思議だな」

「喧嘩売ってんの?」

 相変わらずの軽口に嬉しくなって、東雲の顔を覗き込む。東雲はあしらうようにひらりと手を振って作品の方を見やった。

 一瞬、ランが少し緊張した雰囲気を纏ったのがわかった。まっすぐ黙って作品に向ける眼差しは、ランが作品に向かう時のような不可侵性があって、似てるかも、と少し思った。ぐるりと作品の周りを一周。見終わって、ランを向き直るまでの一瞬、ギラリと射殺すような目がいつもの眠たげな瞳に戻るのが見えて息を呑んだ。

「この部分のライン、もう少し滑らかなら、全体の流れが良くなると思う」



 エンジンをかけるように話し出してからは止まらなかった。あれやこれや、指摘が次から次へ、スラスラと。ランはもつれた糸が解けていくようにどんどん顔を輝かせた。




 東雲が美術に造詣が深いなら嬉しい。そう期待していた以上に、詳しいどころじゃない様子にワクワクが募る。もはや聞いてもさっぱり分からない話に手持ち無沙汰になった俺は、はたとあることに気がついた。




 しばらくして東雲ははっとして俺を振り返った。それはどういう感情の顔?そう思うも束の間「大丈夫だよリラ、セーイチは多分引いたりしないよ!」とにっこり笑った。図星のようで東雲はぐうと唸った。引かれてないか心配する顔だったのか。まだまだ読み解けない。でも、そんなことよりも。

「引いてないよ。ところでさ」

 口角が上がるのが抑えられなかった。

「これからは名前で呼ばせて、リラ」

 だって、東雲って呼んだら、ランと区別がつかないだろ?




 初めて聞いた時から綺麗だと思っていた響き。ずっと呼んでみたかったけど、見つからなかった勇気と口実。ああ、やっと呼べた。初めて発するのに、その2文字は驚くほど口に馴染んだ。