3.「知らない顔をもっと見せて」

 日々構い倒したおかげか。何度かぶつかってきたおかげか。東雲の態度は、徐々に柔和になっていった。大きな収穫だ。変わったことはいくつもあった。

 おはようと言う時の顔のこわばりがなくなった。

 俺を見つけた時、俺に見つかったときの、「げ」と言いたげな表情がなくなった。

 彼女と友人のおしゃべりに混ぜてくれるようになった。

 俺の軽口に、軽口で言い返すようになった。

 もともと口は悪かったけど、以前のように本気で噛みつく口の悪さではなく、気軽な、親しい友人にするような口調を使うようになった。

 じゃあね、と帰りの挨拶をしてくれるようになった。


 何より、一番変わったのは、冗談を言ったり、いたずらを仕掛けたりするようになったことだ。



 東雲が守ってくれた雨の日の、数日後のことだっただろうか。大会が終わっても、変わらず部活にはよく顔を出していた。本当は下の代に譲っていかなければならないのだけれど、赤也も玉川もまだまだ放っておけなくて、それに俺もテニスがしたくて。朝練が終わった後、3年のレギュラー……元レギュラーと一緒に教室に歩き出すと、眠たげに歩く東雲がちょうど登校してきたのが見えた。

「あ、東雲」

 他の奴らには「じゃあまた」と軽く目配せ。挨拶もそこそこに東雲に駆け寄って、並んで歩きだす。なんとなく、東雲から丸井が見えないような位置どりをしてみた。東雲は眠そうに、おはよぉ、朝練?と言った。この間延びした声と、東雲から振られる話題。すべて根気よく構った収穫だ。

「うん」

「朝からお疲れ」

 東雲はそのまま顔を前に向ける……と思っていたら、俺の方を向いたままだった。どうしたの?と言おうとする前に、東雲がにっといたずらっぽく笑った。あ、初めて見る顔だ。

「あんた、汗臭いよ」

「えっ!?」

 素っ頓狂な声が出た。慌てて東雲から距離をとり、自分の襟元に鼻を寄せる。うそ、気を遣ってたつもりだったのに。こういうのは自分では分からないと聞いたことがある。噂通り、自分では全然わからず、制汗剤の匂いを感じるのみだった。

「っ、あははは!」


 鈴を転がすような声だった。俺に向けられた赤い瞳が柔らかく弧を描くのを初めて見た。


 呆気に取られていると、東雲は口元に手を当てて、「うそだよ」と言った。





 それ以来、俺は東雲のからかいや冗談を、いつでも楽しみに待ち望むようになった。



 小テストを交換して丸付けをするとき。自分の答案用紙の隅っこにうさぎを描いて返してみると、丸付け用の赤いペンで、その横ににんじんが描かれていた。

 東雲が立ち上がってどこかに行こうとするとき。足を伸ばして行く手を阻んでみると、「邪魔!」と脛をはたいた。

 ちょっと小突く時。加重しているリストバンドをわざと肩にどすんと落とすように手を置くと、「骨折れた」と大げさに痛がった。

 「おはよう、しの」のめ、まで言わずに挨拶するとき。「誰それ?」とくすくす笑った。本当はリラって呼んでみたかったけど、その勇気と口実はまだなかった。


 「さすがにそれは、反則だろう」と思ったのは、ユニフォームに着替えた後、教室の忘れ物に気づいて取りに帰ったとき。まだ残っていた東雲に、また明日、と手を振って背中を向けた。と思ったら、肩に乗せたジャージがするりと落ちて行った。驚いて振り返る。

「これ、普通に引っ張ったら取れるやつなんだね」

 東雲は俺のジャージの裾を手に掴んでおかしそうに笑っていた。





 だんだん返し方や軽口のたたき方も読めるようになっていて、その予想も楽しくて仕方なかった。珍しく男女合同の体育の授業。絶好の機会に、今日は何をしようかとわくわくしていた。どうやら種目はテニスらしい。いい日だな。真田たちとやる本気の試合も好きだけど、ただ和気あいあいとラリーをするのも俺は好きだった。

「東雲、東雲、俺と組もうよ」

 東雲に話しかける。去年のテニスの授業で、割と仲の良かった男子に同じように持ち掛けたときは「あはは、五感奪うなよ?」なんて言われたっけ。俺は変に怖がられるより、そうやって軽口を叩かれる方が良かったから、「お望みなら」なんてふざけたのを思い出した。あれは一本取られたな。東雲もわりとウィットに富んだ返しをしてくる方だ。同じことを言ったら面白いな、そう胸を躍らせながら返事を待った。

「ええ?絶対やだよ」

 東雲がうげえと顔を顰める。続いた言葉は。

「私ぜったい勝てないじゃん」




 ああ、この子は。

 ぐっと目頭に力を入れた。そうだ、この子は、こういう子だ。



 人の柔らかいところを感じ取る。それを尊重して、踏み込まない。思えば東雲が、俺に「五感」とか「神の子」とかを絡めて何かを言ってきたことは一度もなかった。俺は、そこに妙な悪意がない限り、特に気にもしていない。でも、東雲にとっては、そこは守るべきラインで、俺の尊厳を保つための境界線なのだ。東雲は至極真面目な顔をしていた。これも初めて見る顔だ。



「っふふふ、じゃあ、俺は左手でやるから」

「絶対それでも負けそうなんだけど」

「卓球のラケットでやろうかな」



 はあ?と怪訝な顔。だめ、その顔は突っぱねられてた時に散々見ている。

「ね、知らない顔をもっと見せて」

 脈絡のない俺の発言に、東雲はぽかんと口を開けた。なんかアレに似てるね、宇宙の背景で猫が口を開けているやつ。