外は生憎の雨だった。どこか夏休み気分が抜けない浮ついた雰囲気も、数日経ってしまえばなりを潜める。決勝の話を振られることも少なくなり、やっと落ち着いてきた。
東雲とのおしゃべりは可もなく不可もなく。補講の時のような、ぎすぎすしたかみ合わなさはなくなったが、相変わらずと言うべきか、東雲は俺と他人のままでいようとした。
2コマ連続の選択授業を終えて教室に戻る廊下を歩く。雨の日の学校はなんだか独特の静けさがある。みんなの気分が沈むせいか、校庭ではしゃぐ声が無くなるせいか。自分の足音も、遠くの笑い声も、いつもより響いてよく聞こえた。
だからだろうか、あと5歩くらいで自分のクラスに着くかどうかというところで、運悪く、聞こえてきてしまった。
「でも幸村もさー、怖すぎたよな、あの試合」
「なー。相手の子めっちゃ可哀想でびびったわ」
まだ生徒たちが戻り切っていない教室。男子数名、俺の話をしているようだった。足が勝手に止まる。どうしたものかと、頭はやけに冷静だった。
「五感奪うとか、やばすぎるよな」
「でも、幸村もなんか、感覚無くなる病気じゃなかったっけ?」
「マジ?えっぐ」
顔から表情が抜けていくのが自分でも分かった。ずきりと胸が痛む。
対戦相手の陥る症状について、今まで俺が考えたことがなかったはずがない。俺の病の症状を聞いた時は、「天罰だろうか」とさえ思った。動かない身体、入らない力、つねっても感じない痛み。試合の記憶が蘇る。早く負けたほうが君のためだと、何度か相手に告げたことがある。挑発でも侮蔑でも何でもない。本当にそう思っていたから。
いつの間にか、息をすることを忘れていたようだ。そう気づけたのは、落ち着いた静かな声がその会話を遮って、驚いて思わず息を呑んだからだ。
「ねえ。幸村来たよ」
それは、間違うはずもない東雲の声だった。え?ていうか、どうして気づいた?どうしたって教室から今の俺の位置は見えないはずだ。
「うおやべ、サンキュー……って、どこ?」
言われた方も戸惑っているようだった。そりゃそうだ。教室からでは恐らく、誰もいないように見えるだろう。混乱した俺は未だ動けない。空気を読んで合わせて出るべきなのか、東雲の考えていることがよくわからなかった。
「まあ、嘘だけど」
その声は低く静かに、廊下に響いた。
「あんたらさ、なんか幸村に恨みあるわけ?」
「っ、は?」
「本人来て辞めるくらいの話なら、最初から言わない方がいいんじゃない?」
じんわりと心臓が温まるような心地がした。
ぶつぶつ言いながら教室を出てきた男子数名は、俺が廊下に突っ立っているのを見て幽霊でも見たかのような顔をした。ん?どうしたの?ととぼけて首をかしげて見せれば、どこか安堵したように、でもバツが悪そうに、去っていった。まあ聞いていたんだけどね。
教室に足を踏み入れ自席に着くと、東雲まで幽霊を見たような顔をした。東雲からすれば、嘘から出た真のような登場だっただろう。おかしくて笑いが漏れる。対して、クラスメイト達は東雲の方をみてこそこそと何かを話していた。徐々に選択授業から人が戻り、教室が騒がしくなってくる。「え、なにこの空気」「さっきね東雲さんが」「うわ、すご、さすが」俺に聞こえるくらいなら、東雲にも聞こえているだろう。
東雲の方を見やる。肘をついて窓の方を向いていて、表情が見えなかった。俺にとっては見慣れた、無関心を貫くあの態度。その様子をいいことに、騒がしさ、口々に飛び交う「さっきの話」の共有、感想。別に悪意のある悪口と言うほどでもないが、決して心からの賞賛ではない、座りの悪い何か。
俺は静かに立ち上がった。東雲に向いていた目線は、俺が立ち上がったことで遮られたことだろう。代わりに、突然の俺の行動に注目が移る。振り返って一瞥。自分がどんな顔をしていたのか知らないが、おしゃべりは一瞬ぴたりとやんで、話題はあからさまに散り散りになっていった。再び喧騒を取り戻した教室。東雲は相変わらず窓を眺めてぼんやりしている。回り込んで体をかがめて、東雲の顔を覗き込んだら、ひいっ、と静かに声を上げて心臓をおさえた。そんなに驚かなくても。
「東雲、ありがとう」
「あ、え、いや、別に」
深呼吸を数回して、深く息をついた後に、胸をおさえた手を東雲が下ろした。開かれた手はぎょっとするほど赤くなっていた。
東雲だって、強くはないのだ。
わざわざ俺が来たと嘘をつかないと彼らの話を遮れないくらいには。
教室のざわめきに言い返せず、気にしていない、聞いていないふりをしなければいけないくらいには。
少しずつ、血色の良い白さを取り戻していく手のひらが、東雲の強さも、弱さも、物語っていた。その手を見なければ気づけていなかったかもしれない。
言葉を発さない俺を前に、東雲がうつむく。長い髪が顔に掛かった。
「ねえ、隠さないで」
隠してしまったら、俺が見つけてあげられないだろう。