そんなこんなで、今日。隣同士になって初めての朝だ。手の中の紙袋には、母さんがご機嫌で洗ってくれた、リサとガスパールの柄のハンカチが入っている。
教室に着いて、ドアに手をかけて、自分の席に向かって、おはようとあいさつして、その流れでハンカチを返して、そのついでみたいに聞くんだ。「東雲は、リサとガスパール好きなの?」。
昨日の夜にイメージトレーニングしたくだりを反芻してドアに手をかける。が、復習もむなしく、クラスメイトの数名にしょっぱなから話しかけられてしまった。おはよう、ああ、うん、そうだね、ありがとう、あまり内容は覚えていないけれどそれなりに返しながらなんとか席に着く。東雲は前の座席に座った友人と談笑していた。俺がクラスメイトを引き連れて自席に着いたのをちらと見て、また友人との談笑に戻る。
何ということだ、目が合ったのに「おはよう」とすらいうタイミングがなかった。計画通り第一声からふたりで話すことはかなわず、俺は自分に向けられた話題を振り切るタイミング、東雲の談笑に割って入るタイミング、両方を待つはめになった。
クラスメイト達だって悪気があるわけじゃない。俺を気遣って、俺を案じて声をかけてくれている。だから無下にはできなかったけど、ごめん。正直全然話は聞いていなかった。東雲と友人の談笑に意識を集中させていたから。
「リラ、テニス部の決勝見に行った?」
「い……行ってない」
嘘が下手。
「あはは、だよねー。リラ、本当に興味ないもんね、そういうの」
「よくご存じいただけて有難い限りです……」
この子はたぶん1年から同じクラスの、東雲の数少ない友達だった気がする。たしか、オーケストラ部の。なんだかんだで東雲の理解者なんだろう。
「幸村くんと同じ補講受けて、席まで隣になっても平常心なのはすごい」
「あんた、ファンなの?」
俺となりにいるんだけどなあ。まあ、はたから見たらクラスメイトとの会話に手いっぱいだから、聞いているとは思わないんだろうな。我ながら器用だ。
「いや、私は真田派」
「だれ?さなだ」
「ええ!?うそでしょ!?!風紀週間に怒鳴ってる帽子の人!」
「んんん?ぁあ~、……渋いな」
確かに渋い。友達もいい趣味してるじゃないか。思わず吹き出しそうになって顔を作る。幸村くんどうしたの?俺に話しかけていたクラスメイトの一人が訝しんだが、なんでもないよと笑っておく。
「あ、ねえリラ、顔だけでも!顔だけでもどれが好きか選んで!これレギュラー全員写ってる!」
ちょっと待った。聞きたいような聞きたくないような。というかすぐに写真出せるのってどうなんだ。東雲そういうの嫌いそう。
「ねえすぐ写真出るの怖いんだけど」
ほら。俺たちは慣れっこだけど。そうだと思った。
「いいから!待って先に予想するわ、ん~……これでしょ!」
「……んー?ああまあ、この中で誰か、なら、そう、かも……?」
誰だろう。俺がいい。
「やっぱりー!だと思った」
「なんで?」
「えー、リラが好きって言ってた俳優の顔の系統とか」
ねえお友達、名前を言ってくれ。選んだレギュラーもその俳優も。
そこではっとして意識を戻すと、クラスメイト達は「幸村くん?ごめん、しつこくしちゃって、まだ疲れてるよね」と心配そうに眉を下げていた。いつのまにか返事を忘れていたらしい。「大丈夫だよ、でもありがとう、助かるよ」とだけ笑ってお帰り頂いた。だめだな、慣れないことはするものじゃない。息をつくと、斜め前から声。
「リラ可愛い系好きだもんね。これB組の丸井ね」
がーん。頭の中でそんな音がしたような気がした。まあ、半ば無理やり選ばされ、流されるみたいな返事だったから。本気で丸井のことが好きというわけではないことくらい、俺にもわかっている。
ただ、本当に俺はマイナススタートだな、としみじみ思うほかなかった。
「へえ。東雲は丸井派か」
声をかけると、東雲が弾かれたように顔を上げた。まさか聞かれているなんて思ってもみなかったという顔だった。話していた友人も同じようにぽかんとこちらを見ていた。
「え?いや……なに?聞いてたの?ごめん」
すぐに謝るところが東雲らしいなと思う。真横で噂話をされるのは、あまり良い気分じゃない。たぶんそのことだ。
「いいよ。おはよう」
「おはよう……」
軌道に乗せる。すこし計画は狂ったけれど、イメージした通りの軌道に。さすが東雲が仲良くつるむ友人と言うべきか、何かを察して静かに去っていった。ごめんね、ありがとう。心の中でお礼を言いながら、紙袋を手に取る。
「これ、ハンカチ、ありがとう。ところで……」
このハンカチから始めよう。少しずつ、小さなところから。積み上げていく。諦めない。
まずは東雲を知るところから。嘘が下手。興味がない人間にはとことん興味がない。空気が読める友達がいる。可愛い系の顔が好き。テニス部なら丸井。俳優なら誰?ハンカチはタオル地派?リサとガスパールが好きなの?何色が好きで、誕生日はいつで、好きな食べ物は?ああもう、全部だ。
「好きなものを教えて」
イメージトレーニングと違う、欲張りな質問が口からついて出て、自分でおかしくなって口角が緩んだ。