どうか、勝ってしまわないでくれ。
立海生でそう思っていたのはきっと私だけだろう。8月23日、全国大会決勝。罰当たりな私の願いが通じてしまったのか、幸村は負けた。
新学期。どことなく浮ついた空気をまとう学校は、朝も早いせいかまだ人がまばらだった、屋上に続くドアを開けると、まぶしい光と未だ蒸し暑い風が吹き込んで目を細めた。
「……東雲」
「あ、ほんとにいた。おはよう」
「……おはよう」
存外に音を立てて閉まったドアのせいか、幸村はすぐに私に気が付いた。「精市なら今の時間は屋上庭園に居ると思うぞ」偶然会った柳の情報の正確さに感心する。柳とは選択授業でたまに話していた仲だったので、去り際に「決勝お疲れ」と声をかけたら、少し目を見開いて、東雲もお疲れ。と微笑んだ。
「ここに来るなんて珍しいね」
「うん。初めて来た」
ここが幸村がよく居る場所だというのは、校内の色めき立つ女子の噂で知っていた。だから避けてきたのだ。花壇で咲き誇っている花の名前はコスモスくらいしかわからなかったが、綺麗だと思ったので「綺麗ね」と口に出した。幸村は照れたような、戸惑っているような、よく分からない表情で「ありがとう」と言った。幽霊でも見るかのような目が鬱陶しかったけど、無視してその辺のベンチに座る。つられて幸村が横に腰を下ろすのを待ってから、話を切り出した。
「あんたに会いに来た」
「……戦績聞いた?」
こいつ、何言ってんだ。眉根を寄せた幸村に、呆れながら返す。
「いや、自分が呼んだんじゃん。試合見てたよ」
「え?嘘だよ。居なかったよ」
「客席なんて眼中外だったじゃない」
「それでも立海側の応援席は確認したよ」
「学校の公式応援では行ってないから」
なるほどね。幸村は私が来ていないと思っていたのか。試合後にろくに声もかけず帰ったことを謝る必要はなさそうだ。そう思ったのもつかの間、小さなつぶやき。
「見られたく、なかったな」
それは殆ど風の音に消えそうだった。苦しそうに目線を下げる幸村に、胸がざわついて、決勝のあの日の景色がフラッシュバックした。
あの日。「来なければ良かった、見なければ良かった」1人目の試合が始まって間もなく、ベンチに座る幸村を見て早々に思った。レギュラーを従えて、コートだけを見据える背中。温度のない石のような瞳。すとんとした平坦な表情。全てが歪で、今にも逃げ出したかった。
この人は、このチームは、一度荷を下ろさなければこのまま潰れてしまう。それが「勝ってしまわないでくれ」と思った理由だった。「優勝して、その先に何があるのかな」そう思案する幸村は記憶に新しい。会場で幸村の顔を見た瞬間に、その先にある道は、どんどん狭く、暗くなってしまうのではないかと怖くなった。
だから幸村が負けた時、安堵した。これで彼は神の子から降りることができる。彼を十字架につなぎとめていた連覇という杭が抜かれたのだ。
最後の一球が決まった後、幸村はしばらく立ち尽くした後、ゆっくりと空をあおいだ。首筋を汗が伝い落ちて行くのが見えた。束の間、相手選手が手を差し出す。ああ、もう少し待ってやってくれ。さっと血の気が引いた時にはもう遅かった。幸村は差し出された手を握り返して、穏やかに微笑んでしまった。
そこからのことは、知らない。見ていられなくなって、逃げるように会場を後にしたからだ。幸村が入院で不在の時に、関東大会で立海は負けていたことを、帰路で漏れ聞こえた会話で初めて知った。
最初の試合が始まってからずうっと膝の上で握りしめた手をようやく開くことができたのは、家に着いてから。手のひらにはぎょっとするような爪の跡がついていた。
息をのんで顔を青ざめさせた私に気づくことなく、幸村はまだうつむいていた。ウェーブがかった深い青が表情を隠すように靡く。たまらず手を伸ばした。肩をつかんで、顔を覗き込む。幸村が大きな目を見開いた。
「あんた、ちゃんと泣いた?」
数秒。でも永遠のように感じた。私の言葉が、音として耳に入り、言葉として咀嚼されるシークエンスが、私から見ても読み取れてしまった。それほどまでに幸村の驚いた表情は、数秒のうちにみるみる歪み、長いまつ毛に縁どられた瞳から、ついに涙が零れた。