誰に何を言われようと、もう決めたことだ。
今日が絶好のタイミングだった。補講終わり。陸上部はオフ、顧問は別件で出勤。そもそも夏休みで職員室は顧問含めごく数名の教師のみ。今日以外、なかった。
「待て東雲、急すぎる」
すでに踵を返しかけている私を制止する声が職員室にこだまする。中年の教師、陸上部の顧問は、口を一文字に引き結んで、高圧的な視線で私をその場に縫い付けた。その右手には、押し付けるように手渡した退部届。
「急ってほどでもないじゃないですか。ここまで休学してんだから」
負けじと言葉を返す。そもそも退部は生徒の自由なはずだ、などの常識はこの旧態依然とした体育会系の権化のような顧問には通用しない。彼には何を言ったって無駄であるということを私はこれまでで十分学んでしまっていた。私の主張は聞き入れられない。向き合ったって無駄なのだ。
「話では、戻ろうと思えば戻れる病状だと聞いている。お前の気持ちの問題じゃないのか」
「っ……とにかく辞めるんで。では」
「待ちなさい!」
この顧問は見事なまでに私の地雷を踏む。やっぱり何もわかっちゃいなかったんだな、改めてそう思い対話を放棄した。そのまま捨て台詞を残して脇目も振らず出口まで一目散。これ以上ここにいたら、まずい。その一心で、涙でよく見えない視界もそのままに駆け出した。
「っ、痛っ」
「……っぁ、ごめ、ん」
どん。と、左半身に重たい衝撃が走る。ふわりと、あらいたてのシーツの香りがした。はっとして顔を上げると、そこには困惑と怪訝さが混じった、よくわからない表情の幸村の顔があった。
幸村がいることに気づかなかった。いつからいたんだろう。今の顧問との会話も聴かれていたのか。逃げるように部活を辞めるところを見られていたのか。ざわざわ、ざわざわ。心臓の芯が縮こまる。あ、まずい、そう思ったとき、いやに鮮明にその言葉が耳に飛び込んだ。
「ちょっとは幸村君を見習ったらどうだ!」
瞬間、ガクンと世界が反転する。瞼も開けていられずに視界が真っ暗になった。久々に大きいのが来た。
情動性脱力。症状の一つで、感情の昂りで体の力が抜ける。ひどいときは大笑いしても起きていたからもう慣れっこだ。意識はあるが、力が抜けて動けない。来たる衝撃に備えた。
しかし、身体に感じたのは構えていた感覚とは随分と違った。
「し、東雲!?」
上半身が何かに支えられている感覚がする。力は依然として入らないままだが、崩れ落ちる余地がないほどに安定していた。耳元で響く少し掠れた澄んだ声で、状況はいやでも理解できた。
幸村に抱きとめられている。
恥ずかしくて悔しくて、堪えていた涙は、力の入らない瞼からぼろぼろと無防備に零れていった。発作は一向におさまらない。うんともすんとも言わない自分を見て幸村が焦っているのが分かる。彼の体が震えていたから。
彼は駅のホームで倒れたと聞いた。倒れることの恐ろしさを誰よりも知っている人間だ。私の発作は長くても数分で収まるものだが、そんなことは彼は知る由もないだろう。救急車を、と焦る幸村をようやく顧問が制止した。遅えよ。
「ああいや、安静にさせてやれば大丈夫な症状らしい。そこのソファに座らせてやってくれ」
「いや、でも……」
明らかに困惑する幸村に大丈夫だから、と言おうとして情けない呻き声しか出なかった。顔の力も抜けているから舌も回らない。意識はあるんだね、とおそるおそる呟く声が聞こえて、次の瞬間にはふわりと体が宙に浮いて、すぐに革のひんやりした感触を背中に感じた。ようやく幸村以外に体を預けられて安堵した、はずなのに、離れていくあたたかな体温になぜか寂しさを感じてしまって自分に呆れた。