3.

 神様というものは空気を読まないという自論がある。

 幸か不幸か、結局私の検査結果は「症状軽減、通院・投薬をすれば復学可」。夏休みのうちに復帰し、休学分のカリキュラムの遅れを補講で埋めることになった。休学中はストレス緩和と生活習慣を整えるためにろくすっぽ勉強していなかったし、補講自体はありがたい。夏休みで巻き返せるというのは朗報だった。筈だった。

「よろしく」

 隣に着席したその人は、にっこりと笑ってそう言った。思い出せる中で一番マシな、あの入学式の記憶が蘇る。何か言葉を返さなければ、そう思う前にあの日の浅緑に滲む汗がフラッシュバックして、言葉に詰まっているうちに「じゃー、始めるぞー」という教師の声が響いた。

 幸村精市は、とにかく興味の有無がはっきりしている。悪意なく、ただ当然のように。その印象は今も変わりはないが、どうやら私は彼にとっての「興味なし」側から、「あり」側へと昇格判定を受けたようだった。

「東雲さんと同じ補講だなんて。東雲さんも休学してたんだよね?復学して、どう?」

「……どうとは……ちょっとまだ、久しぶりな感じですね」

「ああ、わかる。というか、前から思っていたけど、どうして敬語なの?3年間同じクラスなのに」

「でもあんまり喋ったことなかったから」

「じゃあ今日喋ったから、敬語が取れるね」

「はあ?なに?取ってほしいの?」

「うん。でももう取れたね」

 無言、沈黙、静寂によってひどくきまずい補講になるだろうという予想は、良くも悪くも外れていた。初日、最初のコマが終わった瞬間から、幸村精市は今までの無関心が嘘のように私に話しかけた。

「東雲さん、いつもチョコクロワッサン食べてるね」

「東雲さんってフランス語取ってたよね?そっちの補講は出ないの?」

「東雲、見て、校庭に野良ネコがいるよ」

 2人だけの補講だから気を遣われているのかと一瞬過ったが、たまに成績不振の別の生徒が数名混ざる時でもこの調子なのだ。しれっと呼び捨てられるようになり、他愛のない話題が増えていった。

 こんなことなら補講で追いつかず、学年を下げて弟と同級生になる方が100倍マシかもしれないとすら思うほどに、幸村の態度の変化は居心地が悪かった。それが親近感から来るものだと知っていたからだ。

 幸村と私は、よく部活動の表彰で同じ壇上に上がることがあった。他の部活の好成績者も一緒に、だが。とはいえその文脈もあって、きっと彼の中の東雲リラは「期待を背負ったのに病に倒れ、逆境を克服し、これから舞い戻る同志」なのだろう。

 この予想が確信に変わるまでに時間はかからなかった。

「東雲は、まだ本調子じゃない?」

 どうしても外せない部活があるだとか何とかで、2コマ目から補講に参加した幸村が、休憩に入るなりおもむろにそう発した。その表情には茶化しも不躾な気軽さもない。ただ慎重に、心から気遣う色が見て取れた。どうして、なにが、そうすっとぼけても良かったけれど、幸村の神妙な面持ちを前にそれも憚られた。私の部活への復帰を、この人は案じている。

 幸村は、壊滅的に間が悪かった。この時の私は、ちょうど直前に、部活へ向かう元恋人に鉢合わせたばかりだったからだ。普段なら受け流せていたかもしれない。曖昧にはぐらかせていたかもしれない。ただ、この時ばかりは、ささくれ立った気持ちがそれを許さなかった。

「……私はあんたと違って、奇跡の復活なんて遂げらんないから」

 言葉を発してすぐに後悔した。再び蘇る浅緑の背中。あれが奇跡だなんてあるわけない。まぎれもなく血と汗の滲む努力だったのに。血の気が引いた時にはもう遅く、私たちしかいない教室に「は?」という、低く、平坦で、冷たい声が響いた。空気がびりりと揺れた気がした。

「……簡単に言ってくれるね」

「先に踏み込んで来ようとしたのはアンタでしょ」

 売り言葉に買い言葉。引くに引けない性分をこれほどまでに憎んだことはない。

「つっかかってきたのは……やめよう。俺が浅はかだった」

 そう言って幸村や肩をすくめて眉間に皺を寄せた。浅はかだった。「当てが外れた」「仲間だと思ったのに、期待して損した」暗にそう言われているようだった。下手に出ている仕草でこちらを見下すような論調に無性に腹が立ち、舌打ちをして会話を放棄した。

 その日以来、幸村が話しかけてくることはなくなった。でも、きっとこれでよかったのだ。