Epilogue

 3年間、同じクラスの女の子がいる。

 一番初めの記憶は、入学式。楽しみで早起きして、いつも早起きの真田も一緒に、きっと俺たちが一番乗りだねなんて話していたから、自分のクラスの座席にぽつんと座る女の子に驚いた。せっかく同じクラスなんだし、早く着いた者同士、仲良くなりたいな。でも、ひどく緊張しているようだったから、声をかけるのをためらっていたら、願ったりかなったり、彼女が顔を挙げた。少し重たげな瞼から覗く赤い瞳が印象的だったのを、今でも鮮明に思い出せる。

 新入生の点呼の時。聞きなれない響きの名前が耳に残った。しののめ りら。綺麗な音だなと思った。周りの子たちが何人も一斉に彼女の方を振り返り、カタカナ?外国人?なんて声が聞こえてきた。俺も振り返ってどんな子か見てみたかったけど、なんだか失礼な気がしたから前を向いていた。

 答え合わせはすぐにできた。クラスに着いてからの自己紹介。あの赤い瞳の子がしののめ りらさん。そう知ったときには、驚きと少し嬉しい気持ちでむずがゆくなった。思わず、お婆ちゃんに入学祝いで奮発して買ってもらった多言語対応の電子辞書を開く。「Lila」の意味を調べてみた。フランス語で、ライラックの花を意味するらしかった。帰ったら母さんに教えてもらおう。うきうきして、肝心の彼女の自己紹介を聞き逃してしまった。慌てて振り返ると彼女の番はとっくに終わっていて、彼女は体ごと振り返って後ろの子の自己紹介を聞いていた。

 部室棟で初めてすれ違った時、陸上部に所属していることを知った。気になって、テニス部がオフの日にこっそり練習を見たことがある。走り高跳び。フォームの事は全く分からないけれど、跳ぶ姿がきれいだと思った。

 彼女は俺に興味がないらしかった。クラスの子たちは、俺に聞こえることもお構いなしに色めきだってきゃいきゃいと俺の話をするときも多かった。そんなときいつだって彼女はあいまいに、否定も肯定もしない抑揚のない声で相槌を打つだけで、それが少しつまらなくもあり、気が楽でもあった。

 1年の夏ごろだろうか。部活終わり、帰ろうとするときに、こっそりと聞きなれた声が、聞きなれない華やいだ声色で誰かの名前を呼ぶのが聞こえた。振り返るとあの子が、照れくさそうに誰かと手をつないでいた。彼氏、いるんだ。なんだかその時自分がどんな顔をしていたか、よく覚えていないけれど、動きを止めた俺の顔を覗き込んだ真田がぎょっとしていたのだけ覚えてる。



 それ以来は、あんまり彼女のことを見ないようにしていた。理由は分からないけれど。俺の視界は彼女を見つけるのが得意らしかったが、そのたびになんとなく焦点をずらした。中2でも同じクラスになったときは、嬉しさ半分、それ以外の何か半分。部活動の好成績者の表彰のときは、俺も同じ壇上にいることを有難く思った。そうでなければ、この時だけは絶対に彼女のことを見なければいけなかっただろうから。

 中3に上がる時、俺は入院中だった。そのころにはすっかりそれどころではなくなっていて、クラス替えの事なんて忘れていた。でも、仁王が名簿を持ってきてくれた時、どきりと、おもちゃのガチャガチャを開けるときのような気持ちを思い出した。同じクラスに東雲リラの名前を見つけたときは、思わず、あ、と声が出て、仁王がいいものを見たとでも言いたげにニヤリと笑った。

 




 ようやく彼女と接点らしい接点が持てた時には、俺も彼女もささくれ立っていた。俺もすごく気が立っていたし、彼女もそうだった。無理はなかった。知っていることは、彼女も何かしら病気で、授業に後れを取ったらしいということだけ。病状は良く知らないけれど、俺と同じ補講を同じ分量受けている時点で、察するには十分だった。あ、あとは彼氏と別れたとも風の噂で聞いたっけ。

 話しかけようとしたけど、かみ合わなかった。彼女もうんざりしていたし、正直俺も少しがっかりした。それでもなぜか構うのを辞められなくて、無理やり距離を詰めた。なあなあに彼女が俺を「幸村」と呼び捨てたのがなんだかうれしかった。なのに、彼女が別れたと噂の彼氏と何やら話している様子がコートから見えたあの日、無性にイライラして、一番彼女を怒らせたのを覚えている。ごめん、俺が浅はかだったんだ。元彼とは言えあいつ並び立つ姿を見て、中1の夏をなんとなく思い出してしまって、八つ当たりしてしまった。その日はひどく落ち込んで、もう不用意にかかわって傷つけるのはやめようと思った。


 それから、すぐ隣にいるのに眺めることも話すこともできない日々が続いた。彼女の病状を垣間見て、偶然助けることができた日もあったけど、事故みたいなものだったし、助けた内になんて入らないだろうな。

 あるとき、丸井が「そう言えば幸村くんと東雲さんって、同じ補講受けてんのな」思い出したようにこぼした。え、丸井って東雲と接点あったっけ。そう聞くより先に赤也が、「東雲さん!?東雲さんって、あの?」と、妙に上ずった声を上げた。

「こら赤也!おめーは黙ってろよい!」

「なに、有名人なの?」

「あ、いや、えと」

 丸井も赤也も言い出しづらそうにしていたけど、最後には教えてくれた。想像もしたくない、男子中学生の……いや、男の、低俗な視線が彼女に向けられていたことを知った。今まで知らずにいたことも、無理やり二人からその話を聞きだしてしまったことも、どちらも後悔した。いまだに動画サイトで見られるらしい彼女の競技中の動画は、着いていたコメントにも、動画にも、投稿者にも、全部通報ボタンを押した。電車の中で彼女の蒼白な顔を見たときは、頭に血が上って気がおかしくなりそうだった。




 ずっと君のことを見ていたけど、どうすればいいのかわからなかった。今だって、さんざん無様に泣き顔をさらして、そのままひとりで屋上に放置されている。彼女が押し付けた柔らかいタオル地のハンカチと、そのハンカチを押しつけたときの、なにかを確かめるような手のひらの感触だけが残っていた。匂いも残っていたりしないかな、なんてバカなことを考えてみたけど、心配になるくらい鼻が詰まっていてそもそも息すら吸い込めなかった。

 見てないし、聞いてないから。

 彼女はその言葉の通り、俺のことを歯牙にもかけていないようで、普通にへこんだ。

風に吹かれて花壇の花が揺れる。彼女が綺麗ねと言った、ピンク色のコスモス。9月のライラック、リラの花は鉢で反日蔭で管理する時期だったから、話の糸口にもできなかった。そもそも俺は、あの綺麗な響きの名前を、一度も呼んだことがない。

 「俺は間違ってばかりだ」特に、お前のことになると。俺の内心を知る由もない彼女は「そんなこと絶対にない。もし間違っても、あとから正しくすればいい」と俺の顔を覗き込んだ。赤い瞳が俺を見据えて強く光るところを初めて見た気がした。

 諦めないことを選んだ道の先にあったのは、まっさらな荒野だった。乾いた土は今しがた流した涙で湿っていた。「間違っても、あとから正しくすればいい。」彼女の言葉を反芻する。

 そうだ、この道には、きっと好きに花を植えていい。引き返して、別の道を選んでもいい。諦めないという選択は、間違っていなかったと思う。思いたい。俺は諦めの悪い男だ。諦めの悪さで、掴みとってきた。今までの間違いも、数年後振り返って答え合わせして、正しかったね、必要だったねと思えるように。テニスの事も、それ以外のことも。



 手の中の、ふわふわのハンカチを握る。このハンカチから始めよう。今日からまた、他人に戻るつもりの東雲、ご愁傷様。往生際の悪い男に捕まってしまって、お気の毒にね。