8.

 また、あの瞳にさらされる。

 今日で補講が最後ということもあって、積年の恨みとばかりに視線を返してみた。

「あんたにあげられるものなんかないよ」

「……あのね、お前から貰おうとしているわけじゃない。前も言ったけど、俺はお前をおびやかすつもりはない」

「じゃあ余計にあんたの意図が分からない」

「東雲さ。決勝の試合、来なよ」

 は?そう思って、「は?」そのまま声にした。お前は私の話を聞いていなかったのか?それとも、聞いてもなお、慮る必要がないとでも?仮にそうだとしても。

 一度も私にテニスの話をしたことがない幸村が。

 部員にあんな表情をさせる「テニス部部長」としての幸村が。

 あの色のない瞳を見せる幸村が。

 あの幸村が、私程度の関係値の人間に試合を見てもらいたがるとも到底思えない。嫌味のつもりか、考えなしなのか。眉間に強く力が入るのが自分でもわかった。一度、気持ちを落ち着けなければ。そう自分で気づくよりも前に、幸村は涼しげな顔で「深呼吸しなよ」と言った。不本意だが発作が起きるよりはマシ。おとなしく従った私がクールダウンするのを見計らって幸村が話し始めた。

「俺はお前のためには戦わない。自分とチームのために戦う。お前に励まされても、励まされなくても、見られていても、見られていなくても、結果は変わらず、優勝するだけだ。そして優勝してもお前には何の関係もない。それは知ってる」

 幸村が自分自身に言い聞かせているようにも感じた。黙って続きを待った。

「お前を苦しめたのは、どうしたってどうにもならない生物の理と、すぐには正せない社会的な歪みだ。仕方ないなんて絶対に思わないけど、お前の言った通り、俺には一生かけたって分からない」

 私が突き放すために投げつけた言葉を、幸村は存外に正面から受け止めて深く噛み砕いたようだった。何を言うべきか、言っていいのか、わからないまま黙っていると、幸村は続けた。

「あの後、それでも俺は、お前が辞めたことが理解できなかったんだ。楽しめなかろうが、自分が削れようが、そうさせた原因が到底取り除けなかろうが、俺にはテニスしかなかったから」

 思い出す。あの浅緑の背中を。「幸村には分かんないよ」投げつけた言葉が脳内にこだまする。私の苦しみは幸村には分からない、まぎれもない事実だ。

 でも、同じように幸村の苦しみは私には分からない。彼だけの苦しみを抱えながら、私と違って、彼は「諦めない」という、私にできなかった選択をした。ただ、それだけだ。

 そんなこと、あの日のリハビリ室の幸村を思えば、本当はわかっていた。

 ごめん。言う前に、謝らせたいわけじゃないからね、と先回りされたので飲み込むしかなかった。ぐ、と息を詰まらせ、代わりの言葉をようやく発した。

「分からなくていい、お互い」

 幸村が形のいい眉を上げた。

「あんたと私は違う判断をした。それだけ」

「ふ、俺が考えていたことと同じだ」

 久しぶりに、笑った顔を見た気がする。困ったような微笑みだったけれど。やっぱり彫刻みたいな顔だな。ぼんやり思った。

「ねえ、俺の選んだ道の先って何があるんだろう」

「……それは、誰も分からないでしょ、行ってみないと。私も、あんたも」

「ふふ。そう。だからだよ、東雲」

 話がやっとかみ合ったと思ったらまたすぐに煙に巻かれてしまった。は?とイラついた声を出すが、もう今までのように険悪な空気にはならなかった。

「楽しめなくなっても、しがみついた先、優勝して」

 優勝を大前提に据えているのはさすがだと思った。幸村が言うと嫌味に聞こえず、実際勝つんだろうな、と思った。そう信じさせるものが幸村にはある。でも、癪には障ったので「そもそも初戦もまだだろうが」とだけ言っておいた。幸村は無視して、でも私を見据えて、続けた。

「その後、何を思うんだろう?って。あの日東雲の話を聞いて、かみ砕いてから、考えるようになってね」

 きっとこの人は、諦めるという選択肢すらなかったんだろう。概念としては持っていたかもしれない。でも、きっと思いもよらなかったのだ、実際にその道を選んだ私のような存在が。

「だから東雲にも、見ていて欲しい。俺がどんな顔してたか、東雲にどう映ったか、教えて欲しい」

 ふと、どこかで聞いた話を思い出した。日本人は、海外旅行先でスリや物乞いを実際に見て初めて、真剣に格差について考え始める、と。幸村にも自分にも失礼だが、似た構図だなと思った。その筋で行くと、幸村はとてつもなく傲慢なことを言っていることになるが、実際傲慢だと思う。私と違う道を選んだ幸村の、その先の道など正直興味はない。見たいとも思わない。自分がみじめになるだけだ。

 それでも私は、目の前にひらりと差し出された決勝戦の観戦チケットを素直に受け取った。あの日、浅緑の入院着を汗で濡らして、ひしゃげたうめき声をあげて、わなわなと手のひらに血管を浮かせていた幸村。目を背けるように逃げ出して、何度も反芻したあの光景を思い出す。……見たかったのだ。あの光景が報われる瞬間を。

 



 きっと忘れもしない、8月23日。その日、幸村精市は負けた。