※痴漢・性加害を想起させる描写があるので注意
この呪いは、いつか解ける日が来るのか。
夏休みということもあって、補講に向かう朝の電車は人もまばらだった。ガラ空きの座席の端、車窓から見える海をぼんやり眺めていると、停車駅で乗り込んできた中年の男性が視界の端を横切る。あ、これは。本能的に視線が男の動向を注視する。脳が警告を告げるよりも早く、その男性は、わざわざ、私の隣に腰を下ろした。
反射的にざわついた心臓をたしなめるように、浅く息を吐く。都心の電車通学では日常茶飯事の攻防戦。立ち上がり、隣の車両に移るドアに手をかけた。不本意なことにある程度心得てしまった対処で、終わると思っていた。しかし、視界の端で、男がこちらを見ながら立ち上がるのが見えた。
停車中の静かな車内に、引き戸を慌てて開ける音は存外大きく響いた。ぽつぽつと座る乗客の視線が一斉に集まるのが分かる。ろくに顔も上げられないまま、震える足を車内に踏み出す。もう一つ、急ぎ足で車両を移るか、だれか女の人の近くに座るか。早く、追ってくる前に。神経は背後に集中しきっていた。感情の波が荒立ち始めるのを必死に抑えながら顔を上げる。視界に飛び込んだのは、先ほどの男が、ホーム伝いに車両のドアをくぐる光景だった。
肩まで氷水に浸かったかのように、すうっと血の気が引く。瞬間。
「ねえ」
澄んだ声。骨ばった大きな手と黒いリストバンドが見えた次の瞬間には、強い力で腕を引かれた。パニックのまま、気づけば座席の端に体は収まっていて、その人は隣にどさっと腰を下ろす。血管がところどころ見える白くて太い腕が、私の前に翳された。ぎゅうと膝の上で手のひらを握りしめた、つもりが、かくりと全身から力が抜けた。発作。むしろ、よくここまで耐えられたと思った。体が後ろに引っ張られ、背中にクッションの感触。鼻腔いっぱいに、洗い立てのシーツのやわらかな匂い。ああ、大丈夫かも。なぜだかそう思って、静かに息を吸い込むと、すぐに力が戻ってきた。まぶたを上げられるようになった時には、電車は動き出し、男はいなくなっていた。
学校の最寄について電車を降りる。私と幸村は、なんとなく一緒に改札を出て、なんとなく並んで学校までの道を歩いていた。
「ゆき、むら。その、ありがとう」
「……大丈夫、ではないだろうけど、とりあえず身体は平気?」
幸村は、自分が何か悪いことをしたかのような面持ちで視線だけをこちらに向けた。職員室での一件の後も、同じ会話をしたっけ。ほんの数日前の出来事が、ずいぶん昔のことに感じる。うん、大丈夫。そう答えたきり幸村とは言葉を交わしていなかった。あの日と同じように、大丈夫と答える。あの日と違ったのは、幸村が会話を続けたことだ。
「その、倒れてしまうのは……本当に放っておいていいのかい」
「ああうん、本当に大丈夫。単純に、力が抜けてるだけだから」
「……単純じゃ、ないだろ」
すこし震えをはらんだ声にはっとして顔を上げると、形の良い眉骨がきゅっと寄せられていた。彼の病状は知らない。でも、なにか、重なるところがあったのかもしれない。2度も助けられたうえに、そのたびに嫌な記憶を呼び覚まさせてしまっていたらどうしよう。浅緑の背中が脳裏をよぎる。さすがに罪悪感を感じて「いや、あの、えーと」弁解するような言葉を漏らしながら携帯を取り出して、もはや手慣れたワードを検索ボックスに打ち込んだ。
「……情動性脱力?」
何の脈絡もなく目の前に携帯の画面を差し出されて面食らっていた幸村だが、症状の概要が記されたページを見て、すぐに意図を理解したように軽く画面に目を滑らせた。読み終わったのか、視線がこちらに向いたのを確認して画面を下げる。幸村にまっすぐ見据えられるとなんだかばつが悪いような感じがして、目線を前に向けた。道の向こうに海が見えた。
「だから大丈夫、寝落ちてるのとだいたい一緒」
幸村はなにか言いたげな表情をしていたが、言葉を探しているようだった。気まずい空気が流れる。
「わ、私、ちょっとコンビニ寄ってから行く。先行ってなよ」
「さっきの今で一人にはできないかな……」
精一杯の口実はむなしく却下された。主張はごもっともだが、私には都合が悪かった。幸村と話すと、終始何かに追い詰められているような、責め立てられているような感覚に陥った。比べてしまうのだ、どうしようもなく。立ち向かう幸村と、逃げていく自分。並び立っていると、目を背けたい自分が無理やり浮き彫りにされるように思えた。どうか私なんかに目もくれず、置いて行ってくれ。そんな悲痛な気持ちを、たった一言「ほっといてよ」というあまりにも棘のある言葉で、幸村に投げつけた。
それでも幸村は、ただ私を見据えていた。