その顔を見るのは、ずっと支えてきた家族や友人であるべきだった。うわ、私でごめん。自分で泣かせておいてなんだけど。
「ゆっ……」
「っご、めん、ちょっと」
幸村、そう呼ぶ前に、幸村は勢いよく顔をそむけて、わたわたと手をさ迷わせた。あまりに予想外の出来事に固まってしまっていたが、幸村がリストバンドを目元にこすりつけようとするのが目に入った瞬間さすがに体が動いた。
「ま、幸村、これ、使ってないからまだ!」
とっさに鞄を漁ってハンカチを押し付けたら、幸村は「いい、いらないっ……」と私の腕をぐいと押しのけた。面食らって言葉を失う。子供か。目に入った制服のスラックスにはきちんと折りたたまれたハンカチ。いやハンカチ持ってるじゃん。無理やりポケットからそれを奪い取る。ぴしっとアイロンのかけられた青いチェック柄。上半身をひねって私に背を向ける幸村の正面に座りなおして、ハンカチを手に握らせた。顔を覆った腕の隙間から見えたのは、真っ赤な顔、悔し気に歪められた唇。
こんな、こんな一面がある人のことを、彼らは、私たちは、私は。何かがむしょうにこみ上げ、幸村がぐすりと鼻をすすり上げたのを見てついに何かが決壊した。
両腕を伸ばして、幸村の後頭部を抱きこむ。そのまま引き寄せて自分の肩口に押し付けた。やわらかなウェーブが頬をくすぐって、洗い立てのシーツの香り、そして少し混じった土の香りが鼻をかすめた。幸村は硬直してハンカチを取り落としたが、お構いなしでそのまま頭を撫でて、その後背中をさすった。いつも弟にしてやったように。
「ちょ、しののめ、っ」
おもいっきり鼻声で舌足らずの声を聞いて、腕の力が無意識に強まっていた。
「見てないし、聞いてないから」
それだけつぶやいて、ただ背中をさする。しばらくすると、あの日のリハビリ室で聞こえたような、ひしゃげたような嗚咽が耳元で響いた。手を添えた背中は、8か月入院していたのなんて嘘だと思ってしまうくらいに、しっかりとたくましく、あのリハビリの日々を物語っているようだった。
見ていたし、聞いていたよ。言葉とは裏腹に、心の中でそう呟く。
きみのことを私はずっと見ていた。入学式の日も、クラスに居るときも、部活ですれ違う時も、リハビリを頑張る姿も。全部じゃないけど見ていた。
きみの話をずっと聞いていた。きゃあきゃあと騒ぐ女子の噂話も、少しねたんだような男子の声も。全部じゃないけど、聞いていた。
きみのことをうらやましいと思っていた。「関心無し」の側に置かれたことが分かって、きっと私は拗ねていた。
きみが入院したと聞いたあの日、走馬灯のように流れた記憶。きみのことを気にしていなければ、あんなに沢山の記憶を思い出せたりはしなかっただろう。
表彰式の壇上で、きみと並ぶのは誇らしかった。だから、きみのような選択ができなかった自分が恥ずかしくて、情けなかった。同じ補講になったとき、本当に合わせる顔がなくて、居心地が悪かった。
心の中で繰り返す。私まで泣いてしまいそうになって、ぎゅうと目を閉じた。そうすると、じんわりぬれた感触が広がっていく肩口で、しゃくりあげる声に合わせて大きな背中が震えるのがいっそう感じ取れた。
頑張ったね。つらかったね。悔しかったね。きっとまだ折り合いはつかないだろう。癒えるまで、何年もかかるかもしれない。でも、これがその第一歩なのだ。
選んだ道の先には、きっと好きに花を植えていい。引き返して、別の道を選んでもいい。あまりにも強く、あまりにも気高く、ついに神の子とまで呼ばれてしまった、ひとりの、私と同い年の男の子。
私には、幸村の苦しみはわからない。幸村にはなれない。でもこれからも、見ているし、聞いているよ。きみの姿を、きみの話を。浅緑の入院着を着たあの日の君が、心の底から報われたと思えるその時まで。
朝のホームルームの予鈴が鳴って、顔を上げた幸村は絶望的な顔をしていた。「俺は間違ってばかりだ」と弱弱しくつぶやいたので、「そんなこと絶対にない。もし間違っても、あとから正しくすればいい」とまた顔を覗き込んだ。真っ赤な目、濡れた鼻、腫れた瞼に、思わず笑ってしまいそうになったので、隠すようにそうっと自分のハンカチを押しあてる。手のひらの感触があの形のいい眉骨をとらえ、ああ、やっぱりきれいな彫刻。と場違いなことを思った。きっとこれも最初で最後だ。
うぶ、とかなんとか情けない声を上げた幸村を放って私は立ち上がる。今更気まずくなってきた。あとは勝手に何とかして、ケロッと授業に出てくるだろうという確信がなぜかあった。
今日からまた、他人の日々の始まりだ。
全く真逆の日々がこの後に待ち受けていることを当然知るよしもない私は、そっと屋上の扉を閉じた。