8.「……」

「俺と付き合って」

 大きく見開かれたリラの瞳が、一瞬とろっと溶けたのを、俺は見逃さなかった。




 息を切らして階段を駆け上がる。屋上のドアを開けると、ベンチで膝を抱えていたリラはいたずらが見つかった子供のようにびくりと肩を揺らした。逆を突いたつもりだろうけど、これ以上逃げられないような所にとっさに逃げこんでしまうところが、たまらなくいじらしく感じた。

 リラは、いくら呼んでも一向にこちらを向かなかった。回り込んでも、覗き込んでも。うーん、少し思案して、リラの前に跪く。握りしめる手のひらにそっと触れると、びくりと肩を揺らした。

「リラは、俺がお前のなんなのか聞いたよね」

 ぐ、とリラが声を漏らした。

「俺も、そんなの分からないよって思った。だからあの時、何も言えなくて、手も足も出なかった」

 でもね、と続ける。

「俺がお前の何なのかなんて関係ないって思ったんだ」

「……え?」

 はたと、リラが手のひらを緩めた。隙間からするりと指を滑り込ませてみる。びくっと萎縮して、そのはずみで俺の指を握りしめて、それにまたびっくりして手を開いた。ふふ、かわいいね。

「リラがどこに逃げても、隠しても、俺はお前を脅かすものから守るよ。俺がお前の何でもなくても。リラのことが好きだから」


 唖然とリラが顔を上げた。拍子抜けしたような表情だったけど、それがどうしてかはよくわからない。やっぱりまだ、読み解けない。

 赤みを帯びた目元をあの日のように親指で拭った。リラは抵抗せずそれを受け入れて、ただ俺を見つめていた。赤い瞳をまっすぐ見つめ返す。

「でも、それだけじゃだめなんだ」




 ずっと追いかけていた。入学式の時から、この赤い瞳を。綺麗な響きの名前、美しく跳ぶ姿、誰かと繋いだ手を。リラの名前は、声は、姿は。よく知りもしない、まだ芽が出てすらいない種のように、いつだって俺をわくわくさせたり落胆させた。

 ふわふわのハンカチから始めて、いろんなことを知った。嘘が下手。興味がない人間にはとことん興味がないけど、なんだかんだ面倒見がいい。空気が読める友達がいるけど、きっぱりとした態度のせいか、彼女を嫌う人も多い。可愛い系の顔が好き。テニス部なら丸井、俳優なら千葉なんとか。ハンカチはタオル地派。リサとガスパールはリラじゃなくてランの好きなキャラ。黒が好き。誕生日は5月、ライラックの花が咲く季節。バターが効いたクロワッサンが好き。いろんな一面が、芽を出し、草を伸ばし、花をつけた。

 知れば知るほど、手をかけたくなった。気を張ると手のひらを握り込む。見られたくない表情はそっぽを向いたりうつむいて、隠す。冗談が好きだけど、人の大事な部分は絶対に守る。自分のことはないがしろにするくせに、人のことはちょっと無理をしても守る。花が咲くほど、実が成るほど、もっとたくさん、もっと綺麗に、枯れないようにと構いたくなった。

 知っても知っても、わからないことだらけだ。怪訝に眉を寄せる。いたずらっぽく笑う。目を見開いた顔。射殺すような不可侵のまなざし。眠たげな顔。赤い瞳にいっぱい涙を貯めた顔。呆れたような困り顔。こんなにたくさんの顔を知ったのに。リラの表情を見て、よくわからないな、と思うことが、いまだにたくさんあった。

 さっきだってそうだ。見たこともない、とろっと溶けた瞳。いちばんかわいかった。もっとたくさん見たいと思った。



「全部、独り占めしたい」

 俺が種をまいて、諦めずに水をやって、やっと実らせて、出会えたものを全部。

 これから出る芽、咲く花、成る実、出会えるもの全部。

「だから、リラの恋人になりたい」



 赤い瞳が、また溶けた。と思ったら、瞬きの弾みに、赤い瞳から涙が零れ落ちた。ひとつぶ、ふたつぶ。ぽろぽろと落ちていく涙もそのままに、ただただ眉を下げて、俺の指を握ったまま。それ、どういう感情?分からなかったから、もう素直に聞いた。俯いて、しばらくしてから返ってきた答えを聞いて、俺は大笑いした。



「思ってたよりちゃんと、私のこと好きで、びっくりした……」

 いったい何を小難しく考えていたんだろうね。今度、ふたりで答え合わせをしよう。あの入学式の日の、最初から全部。


「ああ、そういえば、返事は?」

「わざわざ聞くの?それ……」

「わざわざ言うものだろ、こういうのは」

「……好きだよ、ずっと。付き合って」

「ふふ、ずっとか。悪くないね。……」


 ねえリラ、どこにも行かないでね。言おうとしたけど、どこにも行かせないのは俺の仕事か。そう思って、握った手の甲にキスを落とした。さっきまで俺が女装してたこと、これで忘れてしまえ。