「メイク、俺にして」
女子たちは落胆の声を口々に漏らしたけど、俺も負けじと表情を崩さず微笑む。しばらくして、観念したように「わかった」と眉を下げた。
観念していない様子で抵抗するリラの声は無視して、無理やり連行した。そろそろ冷戦にもうんざりしていたし、寂しかったから。
埃っぽい空き教室。昨日の今日ですぐさま準備が整うはずもなく、昨日どおり通常営業して、準備が整い次第、サプライズ的に切り替えるらしい。そんな事情もあり、メイクは人目から隠れて行われる必要があった。衣装だって最終調整中で、俺の分はまだらしい。
「なんでこうなるかなあ……」
リラは仏頂面でこぼしながら、化粧水の染み込んだコットンを手に取った。
「なんでみんなノリノリなんだろう?」
「知らねえよ。女顔だからじゃない」
「……それ結構気にしてるのに……」
いっそのこと何もなかったように今まで通り話しかけてみたら、存外リラが応えてくれた。さすがに二人っきりの1対1、面と向かわざるを得ないところでまでつっけんどんな態度をとるつもりはないらしい。
ひたりと、コットンごしにリラの手のひらの感触が瞼に押し付けられる。いつかの屋上でハンカチを押し付けられたときを思い出した。なにかを確かめるような手のひらの感触。
「リラって人にメイクできるの?」
「出かける時たまにランにやってる」
やわらかいスポンジの感触が小気味よく、頬を、額をはねる。暖かい手が顎のあたりに添えられて、輪郭の骨をなぞるように往復した。
あ、これ、やばいかもしれない。
化粧品のむせ返るようなにおいに交じって、やさしく甘い香りがした。多分、リラの匂い。「ライラックね、いい香りよ」母さんがいつか言っていたのを思い出した。息を止めて、手のひらにじんわり書いた汗をスラックスの膝のところで拭ってから、ぐっと握りしめる。無意識に眉間にしわが寄ってしまって、リラが声を荒げた。
「ちょっと、動くな」
眉間に指の腹が当てられる感触がした。優しくじんわり、寄せたしわを押し広げるようにさする。額に神経を持っていかれていると、膝に柔らかい感触。俺の両膝は、リラの両膝に挟み込まれて固定された。
「……ねえ、これみんなにやってるの?」
馬鹿正直にそんな声が出た。
「やってるよ、どいつもこいつも動きやがるから。こっちだって好きでやってない」
じわりと、にじみ出るような息苦しさが広がった。
「顔洗いたい派はこっちの袋入りのオイル。めんどい人はこっちのシート、はい取りに来て」
淡々とリラが言い終わる前に、俺含めた男子全員がシートを手に取った。その光景にリラは呆れたようにくすりと笑った。じわり。また広がる。
模擬店の方は、正直のところ、大人気としか言いようがない結果に終わった。準備が整ってお披露目になったのは昼前だったが、そこからの繁盛ぶりが尋常じゃなかった。おそらくからかい半分で見に来た部員が俺を見るなり言葉を失って、丸井なんかは「俺もう女の子と付き合えねーかも」とあんぐり口を開けていた。
でも俺はその日一日中、鉛を胸に詰めたような、もやもやした気分を抱えっぱなしだった。今だってそうだ。
明らかにメイクのクオリティが別格だったこと、なんだかんだでリラがその他運営に力を貸したこと、そのなかで必然的に他のクラスメイトと交流する機会が重なったこと。全部が功を奏してか、どことなくきつかったリラへのクラスメイトのあたりは軟化していた。
それだけなら喜ばしいことだった。でも、それだけじゃなかった。俺のほかにリラにメイクを施してもらった男子が、明らかにリラへの態度を変えたのだ。
「し、東雲さん、こんな感じで合ってる?」
「はいはい、……はは、全然じゃん、残ってるよ。ちょっと貸して」
「う、うん」
「そっかごめん、使い方ちゃんと言ってなかったね。広げて一気に拭くんじゃなくて、折りたたんで、パーツごとにゆっくり拭いて」
そりゃそうだ。あんなのされたら、全員リラに惚れちゃうよ。
じわ、じわ。また広がる。
「……リラ、やり方わかんないからやってよ」
「ええ、めっちゃさっき説明したじゃん、ほんと人の話聞かないな」
自分でやんなさいよ、リラが突っぱねる。さっきの奴にはやってたのに、どうして?「あんた、私のなんなのよ」。俺がリラの何者でもないから?あの問いかけに、答えられなかったから?
「だめ。やって」
思っていた以上に拗ねた声が出た。リラはそんな俺を見て少し目を丸くして、やがて大きく息をついて俺の手からシートを奪い取る。
確かめるように、慈しむように。リラの暖かい手は、どこまでも優しい手つきで、俺に掛かった魔法を解いていく。シートのさわやかなにおいの奥に混ざる、優しくて甘いリラの香り。眉骨のあたりを何度も生温かい感触が撫でた。
こんな思い、さっきの奴も味わったのか。嫌だなあ。俺以外にしないでほしい。リラの優しいところ、面倒見の良いところ、いいにおいがするところ。簡単に他の奴に知ってほしくない。
全部全部、俺だけが知っていたい。どうすればそれが許される?
「はい終わり」
いつの間にか他の男子は教室から退散し、俺とリラ、二人だけが取り残されていた。瞼を開けると目の前に、よくわからない表情のリラの顔。やっぱりまだ、あまり読み解けない。でも。
あの日のリラの言葉がリフレインする。
「あのさ、リラ」
「うん?」
「俺と付き合って」
俺をリラの、恋人にして。
リラは大きく目を見開いた。直後、脱兎のごとく逃げ出した。
反応できなかったのは、リラの逃げ足が速かったからではない。
逃げ出す直前、見開かれたリラの目が、とろっと溶けたからだ。