始業式の屋上。これで他人に戻ると思っていた。名残惜しい手のひらの感触。あの彫刻のような顔に触れるのは最初で最後だと思って、味わうように、泣き腫らした幸村の顔にハンカチを押し当てた。
実際、あの日のうちは、ちゃんと他人に戻れたと思った。壇上で拍手を受ける幸村と、下で床に体育座りの私。諦めないことを選んだ幸村。諦めた私。ほら、きみが勝っても負けても、きみには価値がある。これからも見ているし、聞いているよ。きみの姿を、きみの話を。遠くから、ずっと。
決勝の日は逃げ帰ってしまった分、目一杯の拍手を送った。そうして踏ん切りがついた。
踏ん切りが、ついたのに。
他人とは真逆の日々が始まってすぐ、幸村が私に興味を持っていることなんて察しがついた。最後の補講、彼の言葉を思い出す。
「楽しめなくなっても、しがみついた先、優勝して。その後、何を思うんだろう」
楽しめなくなっても、しがみついた先、彼は優勝できなかった。その先に何があるのか、見つけるまで随分時間がかかるだろう。迷うたびに、間違っていたのかと不安になるかもしれない。だから、私をそばに置いておきたいんだと思った。「諦める」ことを選んだ私を。
要するに。幸村は「自分はこれでよかった」と思うために、私をそばに置こうとしているんだと思っていた。本人すらも自覚なく、悪意なく、無意識に。
だから、近づかれれば近づかれるほど、どんどん好きになって苦しかった。
まるいくんが好きだと思われて、内心焦った。ああいう可愛い顔はランに似ていて好きだけど、触れたいのは幸村の顔だった。
幸村から返されたハンカチは少し鼻を当ててみた。「汗臭いよ」なんて嘘。ずっと幸村の匂いを好ましいと思っていた。洗い立てのやわらかなシーツの香り。何度も助けられた。
これは幸村の好意ではない。幸村本人すら、好意と誤解しているかもしれないけど、きっと違うのだ。そう何度も言い聞かせた。
幸村はどうしようもなく優しい。知れば知るほどそれがわかった。思えば夏休み、どんなに突っぱねても幸村は私を助けてくれた。職員室で、電車の中で。
「あんた、私のなんなのよ」咄嗟に口をついて言葉が出た時。「やってしまった」と思ったのだ。幸村は優しい。私を助けてくれる。私に興味を持っていて、それをきっと好意だと認識している。「じゃあ、彼氏になる」そう言い出す大義名分を与えてしまった。あの性格なら、そう事が運びかねないと思った。
だから、徹底的に避けた。対話の隙を与えないように。関係は逆戻りした。これで良かったと思った。
幸村のメイクをしなきゃいけなくなった時は、嫌で嫌で仕方なかった。でも悲しいことに、恥ずかしいくらいに、舞い上がっていた。触れなければいけない、触れてもいい。あの形のいい眉骨、無駄のない顎のライン、すうと通った鼻筋全てに。手のひらから気持ちが悟られてしまうのが怖かった。それでも抗えず、無意識にたくさん触ってしまった。化粧水なんて、他の人には勝手に自分でやらせていたのに、幸村にだけは、さも当然ですよという顔でコットンを押し当てた。
メイク落としを頼まれた時も、自分のメイクを落とす時よりずっと丁寧に拭き取った。やっぱり抗えなくて、いちばん気に入っている幸村の形のいい眉骨を必要以上に撫でた。すべてさっぱり落とせば、ついにこの時間が終わってしまう。魔法が解けていく。名残惜しさで、胸がいっぱいになって、なんだか泣きそうになった。だから、「付き合って」と言われた時、不意を突かれて、嬉しくて顔が緩んでしまった。ああ、やってしまった。バレてしまった。絶望した。
「全部、独り占めしたい」
幸村の、あまりにもストレートな独白。近くで見たい、助けたい、守りたい、何者かになって、そばに置いておきたい、そうくると思っていたから、呆気に取られた。こいつ、普通に私のこと好きなんじゃん。思ったままに伝えたら幸村が大笑いして、そのあと、王子様のように私の手の甲にキスを落とした。さっきまで女装してくせに。あまりいじってやるのも可哀想なので黙っておいたけど、いつか振り返ってからかいたい。私がからかうと、幸村は心底嬉しそうにするから。
——
冬。つんと肌に突き刺さる海風に身震いして、電車を降りる。マフラーに鼻を埋めてどうにか熱を逃さないように肩をすくめると、後ろから私を呼ぶ声がした。掠れて澄んだあの声に、振り返る。背中から差す太陽の光が精市を照らして、綺麗だな、やっぱり眩しいなと思った。ぼんやりしていると、精市は焦った顔をして、私に駆け寄って抱きしめたから、何事かと焦る。精市は、リラが消えそうだった、とか細い声でつぶやいた。
精市の腕から抜け出して、頬に手を添える。いつ触れても、形のいい顎のライン。慣れることも飽きることもないだろう。
「大丈夫、どこにも行かないよ」
逃げ続けてごめんね。きみの気持ちを分かりきれていなかった。そんなに想ってくれるなら、頑張って私は応えるよ。きみの眩しさに、自分が辛くなっても。
私がいて、きみが「自分はこれでよかった」と思えるのなら、それもいいかも。そうしなくても、「諦めなくて良かった」と思えるまで。きみの未来を、特等席で見させてもらおうじゃないか。